いつだって、彼は笑ってなんかいなかった。
いなかったけれど、僕は、そんな彼の隣にいることが好きだったんだ。
『Silver Cross.』
まだ夏と言うには冷たいけれども、春らしい甘やかさのすっかり消えた、少し強い風。
天候・晴れ。
「………………。」
まだらに白いものが混じった青い空を、黙って見上げる。透き通った明るい茶色の瞳が、日光で微かにきらめいた。
通常のそれより幾ばくか日に焼けた皮膚と、同学年の者たちと比べて大柄な体格。そして、日本人としては少しばかり目立つ純白の髪の毛が、何の障害もなく吹き抜ける風に揺れていた。
もしもここにあの少しばかり世話焼きで微妙に間違った外来語表現を繰り返す眼鏡の少年がいたならば、なんと言っただろう。屋上のタンク上なんかで授業をサボるなんて・と、文句を付けてくるのだろうか。
首に巻いたタオルをいじり、次いで眼鏡を上げながら改まった口調で論理的に犬飼の非を並べ立てるその姿。あまりに容易に想像できて、思わず口元が緩む。アホらしい。
そうと言えども、サボることをやめようなどとは微塵も思わなかった。
やりたいことはある。しかし、それをやるためには学校の授業などさして必要でもない。大体、あんな四角くて狭い空間に数十人の人間がただ黙ってノートに向かっているなんて、よく考えれば異常なのである。犬飼はそう思うことにしていた。
屋上のタンクの上は、思う存分に真っ直ぐな風を受けられる上に誰も来ないときている。だからお気に入りの場所だった。少し教室の空気が鬱陶しい時なんかはすぐここへ来る。
ああ、今日も風がきれいだ。
ひとしきり物思いを終えて、ごろんとふて寝しようとした時、下で扉の開かれる気配がした。
お仲間が来たのか。咄嗟に思う。
こういう場所柄、同じような考えの者が来ることはよくある。だが、まあ、貯水槽によじ登ろうとする根性の座ったサボり魔など滅多に存在しない(犬飼は別である)ので、自分が見つかることはないだろうとタカをくくって身を乗り出した。
扉を静かに閉じ、ゆっくりとした足取りで屋上の端に向かって歩んでいく人物。
透明感のある金色の髪と独特の存在感には初めて目にした者なら思わず目を見張っただろうが、あいにく犬飼にとっては非常に見慣れたものだった。
「……牛尾キャプテン……………。」
そう、それは、十二支野球部のはっきり言って現実的にありえないほど奇人変人かつヒネクレ部員たちを束ねるという難題をなんなくこなしている、牛尾御門その人であった。
あの牛尾主将がサボり。この事実は犬飼の体をさらに乗り出させるには十分な意外性を持っていた。
野球をしている時の姿から考えても、その性格は相当真面目である。野球を心底愛し、グラウンドを「恋人」、ボールを「相棒」とまで言い切る人物だ。サボりなどという単語とはおよそ結びつきそうもない。
おまけに、なにをやっているのか判らないときた。
フェンスを掴み、ただ虚空をぼんやり見つめている。その姿はさながら自殺志願者。よく見れば頬に赤く血の線が走っているようだし、言ってしまえば無気味なことこの上なかった。
フェンス登り始めたらどうしよう、などと考え始めた、その時だった。
白く透き通るような頬に、つう、と一筋、涙が流れた。真っ直ぐ赤い横一文字を描いていた血の筋を、微かに歪ませて。
物事には常に因果が存在すべきであり、例えばニワトリとタマゴのどちらが先か・などという、学者ですら答えられないようなしかも求めてもどうということもない(重要なのはそこにトリ肉またはタマゴ焼き等が存在するというコトである)問題でない限り、それを一般人が求めるのは悪いことではない。
けれどどれだけ欲してもそれは得られなかった。
真っ直ぐ続いていたはずの線路を踏み外したのはどちらだったのか。最初から分岐していた、いやそんなはずはないのだ、なぜならその先に待つのは同じ場所だったはずだからだ。
しかし実際に今自分は一人でただ風を受けている。
神よ、この矛盾は如何やって生まれたのか。
「一応、保健室で手当てを受けなさい。」
先生の指示におとなしく従い、その場を離れる。
体育の授業は好きだったが、球技というのは常に危険が付きまとうものである。
バスケットボールの授業中。高すぎるパスは弧を描き、体育館のガラスを叩き割った。そして、その破片が傍にいた牛尾の頬を切り裂いたのである。
血は傷に沿ってにじむ程度だったから見た目は大したことはなかったが、こういう浅い傷に限ってずきずきと痛むもの。だからこそ、後片付けも心残りだったけれどこうして誰もいない静まり返った廊下を歩くことにしたのだ。
授業中の廊下というのは、独特の静けさと緊張感を持っている。そして、その静けさが、なぜだか過去の残像を呼び起こさせた。校則も無視してバンダナなどを頭に付け、授業をサボっては屋上で一人静かに座っていたその人物。彼はいつも僕を見ると一般的なそれとは少し異なった妙な笑い声を立てて笑った、お前はいつまでそんなつまらん優等生をやっているつもりだ、と。
そしてそこに必ず在った、真っ白い紙ヒコウキ。
授業をサボるような勇気は自分には終ぞ出ることはなかったけれど、いつだって、その紙ヒコウキの描く曲線がなぜだか羨ましくてたまらなかった。
痛む傷を押さえながら歩く牛尾の目に、ふと、階段が目に留まった。自由な風の吹きぬける、あの空間へ続く道。
「……。」
足が、自然と向かっていった。
一段一段、ゆっくり上っていく。その先に待つのが懐かしいあの頃の屋上ではなく、時々独りで見るだけの真新しい屋上だとわかっていても。
辿っているのは、屋上への階段。いや、記憶の階段?自分の、階段?
解ることは、ない。そこに理解するべき答えが存在しないからだ。
彼は、目の前に立ちはだかるドアを、静かに開けた。
やはりそこは見知らぬ場所だった。滅多に来ることもなく、ひたすら馴染みの薄く印象も特に無い灰色の世界。青い冷たい空だけが、視界いっぱいに広がって。
足を進めた。それこそ無意味に、ただ何とはなしに。
記憶の中といったい何が違うだろう。造り?風景?
違う。
彼がいない。彼の飛ばす、紙ヒコウキが、ない。彼、が。
一瞬強い風が吹いた。
頬を、生温かい滴が伝わった。
なぜここまで自分が彼の存在にこだわるのか、未だもって理解できない。
ただ言えるのは、彼がいなければ自分は今のようにはなれなかっただろうということ。あまり喋らない彼が時々発する言葉は大して大きな意味があるわけでもないのにその向こうが見えなくて、いつも自分は考えてしまった。それまで考える余地など無いと思っていた、“常識”たちの裏側、その矛盾。付きっ切りの過保護な召使いたちに整理された思い出と心の、だけどどうしても空いたままになってしまった隙間へ、彼の存在はおかしいくらいにすんなり収まって――…同時に、悔しさに似た憧憬が湧いたから。
けれど。
けれど、それすらも僕は気に入っていたはずなんだ。だからこそ僕は微笑った、殴られてもまた話をしたし、共に野球を楽しんだ。
ねえ。
何を間違えたのかな、僕たちは?
結果に原因がつきものだとするなら、その原因は、一体どこを探せば見つかるんだろう?
応えてくれる者など、そこには、いなかった。
完璧な人間だと思っていた人物の涙という意外なものに、犬飼はただ目を丸くして事の顛末を見守っていた。牛尾がくるりと振り向いてこちらに向かって歩いてきたが、タンクの高さは結構ある。うつ向き気味に歩いている牛尾の視界には入らないだろう、そう思い、犬飼は乗り出した身を引こうとはしていなかった。
一歩一歩が重い、どこか淀んだような足取りの牛尾の手がゆっくり挙がって、首根の後ろに回った。カチリ、と軽い音を立てて、銀に輝くネックレスの鎖が外される。
別のものに付け替える気なのだろうか。よく考えもせずに、その行く末を見守る。
と。
牛尾の手が素早く動いたかと思えば、まっすぐな線を描いて鈍い輝きが自分の手元に飛んできた。野球の時のクセで反射的に掴み取る。人肌で少し温められたそれは、開けた手の中できらりときらめいた。
慌ててネックレスを投げてよこした本人をぱっと見ると、相手はいつもの人当たりのよい笑みを浮かべていた。
「あげるよ。」
「……気づいてたんスか。」
ああ、昔、似たような友人がいたんでね、と、牛尾は軽く手を振って答えた。
そう。彼は、僕が来たってずっと開いたドアの裏側に隠れて座って、黙ったまま。僕自身が見つけるまでは、絶対に姿を現してくれなかった。
それでも、僕はいつも見つけてあげていたんだ。見つけてあげようと思って、いつも背後に神経を張り詰めていた。
だから、今でも気配には聡いんだよ。
「…いらないっすよ。なんか悪いし…これ、キャプテンのっしょ。」
戸惑い気味に投げ返そうとした犬飼を、牛尾は手と声で制した。
「いいよ。僕はまだ他にも持ってるし、ただなんとなくあげたくなっただけだから。ただの気まぐれさ、もらってくれ」
「いや、でも……」
「じゃあね。また部活で。」
「え、ちょ、まっ……」
タンクの上からでは強引に引き止めることも出来ず、ぽかんとしたまま、犬飼は取り残された。
部活時間。グラウンドがにわかに賑わい始め、マウンドにはいつものトンボがけの音が響く。
犬飼はそうっと手の平を広げた。中では、小さな銀の十字架が光っている。鈍く輝く細い鎖が、少しだけ手からこぼれた。
結局、あれから牛尾には会えなかった。捨てるわけにもいかず、かといって男からもらったものなど気持ち悪くて着けられたものではない。元からして、こういった装飾品の類は趣味じゃないし。
そんなわけで、未だにネックレスは犬飼の手元にあるのである。
…女からでさえ嫌だってのに……。
ため息をつくと、ユニフォームのポケットにネックレスを突っ込み、犬飼はグラウンドに向かった。
グラウンドに着くと、もう当たり前のようだが牛尾は一年生に混じって一人トンボがけに精を出していた。これが彼の慣習なのだ。きっと、引退するまで変わることはない。
目が合うと、彼の視線は最初そのまま止まって、それから思い出したように一瞬犬飼の首元へ行き、またすぐに笑顔になって、言った。
本当に、君は彼によく似ているね、と。
「…彼って、誰っスか。」
こちらはまじめに聞いているのに、相手はくすくす笑うばかりで、結局きちんと名前を出してはくれない。 再びトンボをかけ始めて、なんだか曖昧な事しか言わなかった。
“彼”にもね、同じようにクロスのチョーカーをあげたことがあるんだ。なんとなくね。
けど、やっぱり“彼”も怪訝な顔をするばっかりで。
結局、着けてくれているのを見たことがないんだよ。
だから、やっぱり君とはそっくりだ。
すまないね、「君」という一つの人格もちゃんと見てはいるんだけど。
少しだけ、重ねてしまうんだよ。
“彼”とね。
犬飼は、少し首を傾げてから、「失礼します」と小さくつぶやいて、その場を去った。
鹿目が、何かあったのかと聞いてきた。いつもよりもトンボが雑なのだ、と。
「なんでもないよ。今日は特に気分が落ち着かないだけ」
「ほんとか?怪しいのだ。」
ほんとさ、となおも繰り返す牛尾を、やはり怪訝そうに首をかしげながら、鹿目は行ってしまった。
本当は、そろそろ“自分”が限界かもしれない、などと思っていた。
弱音を吐かない本音も言わない何より自分より誰かを大事にして自分はただ普通に微笑みさえしてればいい。
そんな、保てればこれ以上ないくらい便利だろう、自分の「人格」。
いつまで、これを保てるだろう?
元よりお前に人格など無いよと言われればそれまでだろうけど。
牛尾は独りで自嘲の笑いを浮かべた。
部活が終わって帰る時、いつも通りに隣を歩く辰羅川にネックレスをやった。
「どうしたんですか。ちょっと気味が悪いですね。」
心底不思議そうに、だが滅多にない贈り物なので少し嬉しそうに辰羅川は言った。しかしそれをその後彼が身につけるかどうかは定かではない。大方“珍品”として引き出しにでも仕舞う気だろう。
「うるせ。おれだって気味悪いんだよ。」
ぶっきらぼうにそう言い捨てると、犬飼はさっさと歩き始めてしまう。その、無口でだけどなぜか親しみの湧く後ろ姿を、辰羅川は慌てて追いかけた。
---------------------End.
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なんか…牛尾さんが書きたかったんです(ぇ) で、キャプテンに弱い犬飼も可愛くて面白いなーと思って絡ませてみました。たぶん。(書いたのが昔すぎて覚えてない…;)
しかしなんでこの頃の私の書く牛尾さんってこんなに病んでるのかな; 今書くとただの野球LOVEな天然気味優しいキャプテンになると思います(笑)